★【トレーニングシステム開発秘話】

【開発秘話】《めでたく出版へ!》  第40号

 一週間後、編集者から「表紙が出来
上がりましたよ」、「横浜に用事がある
のでお持ちしますよ」と表紙を持って来た。
 酒を準備して待っていた。
 面白い表紙になっていた。
「いい表紙でしょう」「明朝一番に印刷に入ります」「もうセットしてあるはず
ですよ」と。
 よく眺めて見ると何か違和感がある。
「何かオカシイ」、と同じくらいの厚さの本に巻いてみた。
 編集者は「いいじゃないですか」「何がおかしいんですか?」
「だって私の本は横書きでしょ!」
「そうですよ。横書きですよ」
「どちらから開きますか?」
「そりゃ左からですよ」
「見て下さい」と裏表紙からページをめくって見せた。
「アッ⋯」。と青ざめた。
「電話電話!、社員まだいるかな」と大慌てで印刷会社に電話。帰る寸前の社員に「間に合った。中止、中止にして下さい!」、と止める事ができた。
 さらに表紙は著者の私の名前も略字になっていた。
 どうしたものかと翌日出版社に出向いた。右左反対になると画像が左右反対にしなければならない。これを画家が許可するか、大もめにもめた。
 私は画家の性格を知っているので「多分大丈夫ですよ」と言ったが、「いや〜そんなはずない」と。
「兎に角電話して聞いてみます」と電話をかけて事情を説明すると。
 画家は「そんなこといいよ〜」
「だって先生如意棒が反対の手になってしまうんですよ」
 先生は「かま〜ねえよ〜」とあっさ
りオーケーが出た。
「このタイトルも作り直しか〜」「これは色抜きと言ってタイトルが入る所の色を少しずつ抜いていく作業があって、とても高額な作業なんですよ」と。
「え〜コンピュータじゃないんですか?」
 これにはまたまた驚いた。この時代になっても、この出版社は一切コンピュータを使わない会社。「一体何十倍の無駄をやっているんだろう」と呆れ果てた。
 当時の僕でも画像にタイトルを印字することくらい、ほんの10 分もあればできる作業だ。それに何十万ものお金を払っていた。
 十難去ってもまた一難。これで終わったかと思いきや、その後、帯も逆に印刷してしまったとの事だった。
めでたく出版
 出版を目指して早5年が経って48才になっていた。
 ついに本が完成し、全国に配本になった。思わぬ売れ行きとの事だった。
 10 日後完成祝いと出版社へと出向いた。
 担当者と飲んでいると、そこに「おおやってるな」と社長が顔を出し、「最初の者はたいへんだ!」と苦労をねぎらってくれた。
「ところで社長、クレームは?」と聞いてみた。
 しばらくして反対に「あんたの所は」
と聞き返された。
「全くありません」
 今一度「会社には?」と聞き返すと。
 しばらく無言で、「あるわけねーよ」と。
「何でですか?」と聞くと。
「解るわけね〜よ」と。
 その後殆ど、私の所にも出版社にも読者から誤字の指摘以外、内容に付いては何の反響もなく黙々と売れ続けた。

【開発秘話】 《振り回された編集》 第39号


 社長のオーケーをようやく勝ち取って編集者に原稿が回って、次の指示を待った。
 それにしても遅すぎる。
 出版が決まっても音沙汰なし。
 半年後、出版社に出向いて担当者に聞いてみると、「理解しようと帰りの電車の中で読んでいるんです。どうしても眠ってしまうんですよ」。
 それは今までにない理論なので難解なのは分かる。
 彼曰く「しっかり理解できないと私も困る」と。
 仕方なく待つ事にする。
 また3ヶ月経った。今度は社長「おー、早くしてやれよ」と。

 ようやくエンジンがかかり、一年が経過。ようやく出版に向けて動き始めた。
 編集者は「挿絵はいらないのではないか」というので挿絵を抜いて作って行った。ところが一週間後、編集者は
「やっぱりあった方が読みやすいですね」とくる。
 画像も文章も全てフロッピーディスクに入れて提出してあるので、オーケーさえ出れば、すぐに版下が出て来ると思っていた。
 ところがなかなか青焼きが出て来ない。
 約一ヶ月でようやく一校が出てきて、見るなり仰天してしまった。
 挿絵は横に飛び出ている。文字の種類が、前半、中半、後半で違っている。点線で囲った文章があるが、点線の種類が全部違って3種類になっている。おまけに誤字だらけ。
 何でこんな事になっているのか解らず、必死で直して納める。2校が出て来ると直した箇所の下が空白になっている。
 直したレイアウトがろくに直ってない。
 「デジタルデータで納めたはずなのに、どうなっているんですか?」と聞いてみると、
 「ああ、原稿を写植で3社にやらせている」との事。
 「なんで3社?」
 「その方が安いのだ」という回答。
 誤字の訂正などというレベルではない。レイアウトの訂正で精一杯。
 三校が終わって「これで出版か」と、一応終了ということで飲み屋に行った。
 苦労が報われたどころの話ではなく、編集者と出版社近くの居酒屋でガックリしながら無言で飲んでいるとそこに社長がヒョッコリやってきて

 「どうだ!」と。
 「殆ど直ってないんですよ」
 口数少なく飲んでいると、社長が帰り際に

 「わかった、あと2校やれ」と言って帰って行った。
 ようやく勇気づけられて明るい気持ちで飲み始めた。
 あれほど出版に際して抵抗していた社長だったが、態度が一変して以来、私が会社に行くと、「おー飲みに行こう」と誘ってくるようになっていた。あげくの果て、「あの本な『音楽は何語!』じゃ軽すぎる、タイトルは俺が考える」。
とたいそう気に入ってくれ『日本人はクラシック音楽をどう把握するか』という長いタイトルに変わってしまったのだ。
 出版前に著者と飲むのは会社始まって以来という事だった。
 合計五校を終わってレイアウトの体裁はようやく整った。しかしまだ誤字が直しきれていなかった。
 もう諦めるより仕方ないだろう。増版の時に少しずつやればいいのではないかと説得されて終了になった。
 例の如く、担当者と一杯飲んでいると社長が「や〜ご苦労様、終わったな」と入ってきた。
 飲んでいる社長が一言「本が出るとクレームで仕事にならなくなるな」「どうするか⋯」と⋯。
 「そうだ紙上討論をやろう」
 「相手は全国の音楽家だ。それを相手にするのは傳田一人だぞ、やれるか!」
 「それに出版したからにはもう音楽家ではいられないぞ、音楽界から抹殺されるぞ。どうだ」と言ってきた。
 私は「本望です」と。
 「じゃ紙上討論をやろう」と決まり、社長は帰って行った。

【開発秘話】第15回〜演奏に構造があった22年6月 第38号

喫茶店に移動した後、殆ど無言の会話を続けた。

ただお互いに確認の連続だった。

「螺旋だね」

「⋯」

「そうですね。間違いないでしょう」

「⋯」

「どんな形をしている螺旋でしょうかね」

「⋯」

「多分複雑に絡まっているからゴム動力の飛行機のゴムのように団子がいくつできている形じゃないか⋯」

「⋯」

「いくつ団子を作ればいいでしょう⋯」

「⋯」

「もし3つの螺旋だとすれば3つの団子だとつじつまが合うかも知れない⋯」

「⋯」

「そう考えれば下層構造も常に表面に出る⋯」

「⋯」

「そうですね。螺旋とダンゴ、それですね。⋯」

「⋯」

「螺旋⋯」

「そうですね螺旋ですね⋯」

一分に一回言葉を発するか否かのこんな言葉少ない会話が昼近い11時頃まで続いた。

会計を済ませ、表に出ようとした時、彼は「ようやく構造が明らかになりましたね」と、

「でも先生、これは3次元では表せませんね」。

「え〜、何で〜⋯」

「⋯いやいや忘れて下さい」

現時点でそれを表現できる手段がありませんから、ゴムのダンゴとして考えを進めて下さい」と言い残し帰って行った。

議論の重要性を思い知らされた瞬間だった。

無礼な彼の物言いであったが、「殴らなくて良かった」としみじみ思わされた。

この構造が明らかになった事で音楽の現象の全てが明らかになった瞬間でもあった。

 

3次元で表せない」彼が言いたかった事が分かったのは本が出版になって3ヶ月後の事だった。全て同時に起こる現象だ。ということの意味だった。

・・・

この事件によって、出版社の社長が言った重複の書き換えと同時に、結論の重複部にこの構造の項目を付け加えた事によって、最後の結論の削除部分がさらに充実したものになった。

 

***文章化は***

専門書は専門家が分かる言葉を使えば簡単に済ませられる事は多くある。しかしそれでは逃げになる恐れもある。出来るだけ専門用語を使って逃げてはダメというポリシーが私にはあった。

しかし文章だらけの本というのは読みたくなくなる。

そこで同じく中学時代の美術の恩師が画家になっていることを音楽の恩師から聞き、画家を訪ねて挿絵をお願いした。

その挿絵は文中に使う40枚前後の挿絵で、音楽の恩師は「挿絵というのは章の前に数枚使うだけです」「そんな事はあり得ない」と大反対していた。

画家は「よーし、分かった、直ぐにやってやるよ」と気楽に引き受けてくれた。が、その後、この挿絵の事で音楽の恩師とは大げんかになり音信不通になってしまった。

その挿絵を挟む事によって硬い内容の理論書が一般書のような形に出来たのだ。

 

**書けなかった訳だ**

また渡辺先生の忠告により文化比較はできるだけ後ろに⋯。

さらに本文には掲載できない重要な補足説明をどうするかという問題は「追旨」という形で纏めて巻末に纏める方法をとることができた。

また注釈の他に本分に必要な副次的な重要な事がらは「補説」として枠で囲む項目を作る。また重要でありながら本分から逸れた文章は「妙薬」として別の枠を設けた。

つまり構造で出来た音楽の多数の副次的な要素が本を構造的にすることで一つの文章として繋げる事ができたのだった。

 

書こうと必死になっても纏まらない、その原因は多元的な要素を文章として一つの筋書きにしようとしていた所に無理があった事が「音楽に構造」が明らかになったことで、ようやく理解できた


【開発秘話】第14回 〜演奏に構造があった〜21年12月 第37号21年12月 第37号

出版を待っている丁度その頃の事だった。

 数年前から、社会人の吹奏楽団を教えていた。そのメンバーの一人にクラリネットと指揮法を教えた人物が居て、東大の数学科の助手になっていた。彼も研究真っ盛り、大事な論文を控えていた時だったらしい。一際鋭くなっていた。

 ある夏の日、彼と彼の仲間が酒を携えて訪ねてきた。久しぶりの酒盛りで盛り上がれると、飲み始めた。

 酔いが回り始めた頃、彼が私に食ってかかってきた。

 「あんな事は言えない、理論になってない」と始まったのです。

 次第に白熱してくると、仲間たちは無言になり、僕と彼の二人の大論争になってしまった。仲間たちは彼一人を残して先に帰ってしまった。

「これで師弟の関係は終わった」と帰り際に言っていたとの事だ。

 正に胸倉を掴んで殴ってやろうと思った事何回も。

 彼は研究の最中で、自分の合理的な理論を構築するのに曖昧さを許せない立場にもあったのかも知れない。

 いつもの様子と全く違う。

 私は彼に執ように責められても論理的な反論ができない虚しさがあった。そのために爆発しそうな感情を抑え、我慢を重ねていた。

 とうとう夜明けを迎えてしまった。

 酔いも冷め、コーヒーを飲もうかと台所に移動した。

 二人とも喋りすぎで疲れもピーク。

 さすがに言葉数も少なくなっていたが、議論は続いていた。

F:「それじゃーまるで音楽に構造があるみたいじゃないですか」

私:「だからさっきから言っているだろう。あるんだよ」

F:「じゃ一体その構造は何んですか?」

私:「蹴鞠のように糸を複雑に絡めたような構造だよ」

F:「それだったら解せるでしょう」

私:「それが解れないから困っている」

「どうして解れないのかわからない」

「⋯⋯」

「まるでその中に隠れた糸があるようで⋯」

「電球のフィラメント⋯」

「⋯」

顔を見合わせ、「⋯螺旋?」と同時に閃き、顔を見合わせた。

私:「そうだ螺旋だ!」

「⋯」

F:「そうですね。DNA のような螺旋構造ですね⋯それが絡まっている」

F:「それだ!」

「⋯」

私:「二本じゃないな⋯」

「⋯」

F:「二本じゃなさそうですね⋯」

「⋯」

私:「そうだよね⋯」

「⋯」

私:「何本だろう⋯」

「⋯」

F:「音楽には最小限必要な要素は幾つありますか⋯」

「⋯」

私:「発音、発音体、⋯」

私:「今思い付くのは3つだけど4つくらいあるのかな⋯」

「⋯」

F:「兎に角二つではなさそうですね⋯」

「⋯」

私:「二つではないな〜!」

 こんな会話とも言えないような閑散とした会話が2 時間も続いていた。

 女房が起きて来て会話が中断してしまったので、喫茶店が開いているかも知れないと喫茶店に移動。

 喫茶店でも無言の会話が続く⋯


【開発秘話】第13回  〜解けた誤解〜       21年12月  第36号

 多分先方の作曲家は僕の事を覚えていないのだろうという事が想像できた。芸術現代社にはK 氏の名前を語っていると思われているらしい。

 そこで最後の手段、このK 先生に経緯を手紙に書いて、末尾に「先生の名前を語るつもりは毛頭ありません。どうぞ静観下さい」と締めた。

 手紙を出して3日ほど後、芸術現代社からいきなり呼び出しがあって行ってみると、「君の本はこうなる」。と同じくらいのページ数の本を机の上に出された。

 「えっ!」

 「ただ、重複が多いのでここを書き換えてくれ」と、今回ばかりは場所を指定してきた。

 どうも誤解が解けたようだ。それにしても急な話である。

 きっと作曲家は思い出してくれたようで、直ぐさま芸術現代社に電話をしてくれたらしい。

 しかし今回指摘された書き換えは文化比較のA4 で20 ページ。最終ページの5 ページの合25 ページ。

 一番苦労して書いた中核を成す所なだけに、帰宅してから途方に暮れた。

 これにはホトホト参った。

 指摘された両方の箇所の重複はしていないのだが、重複に感じさせるのだろう。

 出版が決まっても今回ばかりは作業が手に付かない。

一週間後、一念発起し、重複と言われるなら、と重複と言われる箇所を細かく切り、切り貼りの作業をして、ようやく半分にした。

 最終ページの重複は同じ単語を避けるべく、コンピュータで作業。何とか数ページに纏めた。

 通して読んでみると「なんじゃい、これは!」という間抜けなものになってしまっている。

 「これでは僕が書こうとしている本ではない」。と再び途方に暮れた。

 これを補う方法はないか必死に考えたが、この本の中に不確定さが残るある項目を省いた事を思い出した。

 「それを書くしかない」。と研究と作業を進め出した。

 この項目を書くと楽譜や音符が必要になる。

 コンピュータを駆使して音符を製作し、楽譜を起こした。

 元になる楽譜は付き合いのあるヤマハ店の教え子に頼んでナイショでコピーをしてもらった。何せお金のない時だった。たいした金額ではないのだが、4小節の幾つかが欲しかっただけなのだ。

 一ヶ月ほど作業に没頭し、資料を集めてみると、この入れそこなった項目が、本の内容を補強する、実に重要な論拠になる事が解った。

 書き上げて全体をみると以前よりはるかに説得力ある内容になっていた。

 ところが困った事に以前のページ数より遙かに増えてしまったのだ。

 恐る恐る出版社に持ち込んで「すみません。言われた所をカットして作業を進めたんですが、補おうと思って書き足したら逆に増えてしまったんです」。

 社長は「おー、そんなもんだ」と受け取ってくれた。

 「おーい、〜〜君、この本の担当をしてくれ」と。僕の大学時代の先輩に当たる編集者だ。

 先輩の出方を待った。

 ところが二ヶ月経っても、三ヶ月経っても返事がない。

 電話すると「もう少し待って下さい」との事。

 「進んではいるんだ」と、しかたなく待つ事にした。しかし⋯!


【開発秘話】第12回 〜再び出版社探し    21年6月  第35号

 丸3年を無駄にして、再び出版社探しを始めた。

 一般の出版社と大手の音楽関係の出版社は絶望的であったことから、小規模な出版社を紹介で回ったが、本不況と呼ばれる中で、良い返事が貰えない。

 最後の頼みの綱、音楽関係の子会社を探した。

 ようやく一社理解してくれる出版社が出て来た。「素晴らしい革新的な内容だ」「うちで出させて頂いてもいいが楽譜専門なもので本は苦手なんです」。

「売れないと勿体ないので関係会社を紹介させて頂いてもよいですか」との返事だった。

 「是非に」とお願いしました。

 一週間ほど後、聞き覚えがある野太い電話の声で、「芸術現代社の仲宗根だけど⋯」。「河合出版からの紹介で読ませてもらった」

 「3年くらい前に君と良く似た論を書いたヤツがいたよ」「会社に来てくれないか」という返事。

 「おやおや」と思うと同時に今度は何を言われる事やら。

 すごすご出掛けてみると、「何だ、君だったのか」。「当時はこんな事はない」と思っていたんだけど、最近一部言われ始め〜〜〜」。

 あげく「河合楽器の彼はたいした事ない奴だよ〜〜」などと、言い繕っていた。

 さらに「なに、君はK 先生を知っているのか。明日会うのでよろしく言ってやるよ」と。

 「ま、検討してやろう」「一週間後に来てくれ」と。

 翌週、ようやく日の目が見られるかも知れない、と喜び勇んで出版社に行くと。「作曲家のK氏、君は知っているんだよな」。また翌週行くと「K氏は⋯」。

また「K氏は⋯」と一向に先に進まない。

 あげくの果てが「これじゃ出版にならない」。何が悪いとも言わず「書き換えて来てれ」。

 必死の思いで数ヶ月、書き換えて持って行くとその度に「K氏は⋯」と言ってくる。

 また書き換えを言われる、こんなことを複数回繰り返し、とうとう2年が経過してしまった。私のエネルギーも底をついてきた。

 「K氏と一昨日会ったよ⋯」と再度始まった。

 「〜何かおかしい変だ⋯?!」

 このK氏とは芸大教授、吹奏楽連盟の大御所でもあった。また私が勤めていた大学でも教鞭をとっていて何回となくお会いしていた。

 また、一時私も連盟にも関わって泊まりがけの総会兼、慰安会があった。食堂ではドンチャン騒ぎだった。愛想をつかして寝室に帰った所、隣はこのK氏だった。そこで私は「こんな事の研究をしている。いつか出版したい」と話したら、「それなら男気のある芸術現代社に行くといいよ」と言ってくれた。

 その後20 年そのアドバイスを糧に一冊の本を書き上げて、この社長の所へ持って行ったのだった。

 その時K氏の名前を出したのだが、この事が新たな問題を生むとは思いもよらなかった。


【開発秘話】第11回                   《遠くからの声》〜ドクター論文を〜 20年12月  第34号

遠くからの声 〜ドクター論文を〜

 

 話が横道に逸れてしまったが、何社尋ねても出版はままならず、あげくの果ては出版社の若い女性の編集者からは「あなた勉強しなさいよ!」と言われる始末。四面楚歌になった私の研究、『音楽は何語!』

 付き合いのあった中学時代の音楽の恩に、私のこの理論を話していた。

この恩師は親戚にキリスト教大学で科学史を教えている先生、渡辺正雄先生を紹介をしてくれていた。渡辺先生は科学史を日本に広めるのに大変苦労された方だった。

 この渡辺先生を訪ねて理論を話した所『そうですか、音楽も日本人には出来ないのですか』と、たいへん興味を示してくれ、お付き合いが始まったのだが、その後、出版の話がことごとくダメになり万策尽きて、2年ほど連絡も取らず悶々と過ごしていた。

 そんなとき、渡辺先生から中学時代の恩師の所へ『彼はいったいどうしてしまったんですか』と「渡辺先生から電話がありましたよ」。と言ってきた。

 私はご無沙汰の詫びと近況を渡辺先生に電話で話した。

 先生は『それならドクター論文を書きなさい』と言われた。今度はドクター論文に力を注ぐ事になりましたが、今では簡単に纏める事はできるが、当時80 ページを、15 ページの論文に纏める難しさは想像を絶する作業でした。

 十数回の書き換えの作業でもオーケーは出ず、とうとう直接提出先に本の原稿と15 ページの論文を送る事になりました。

 待つこと一ヶ月、先方から返事がないことからこちらから直接訪ねる事になりました。

 論文の提出先は渡辺先生の教え子の音楽学の教授だ。

 大学を訪ね、手短に説明、ビデオも駆使し、説明を終えると「いやーユニークな理論ですね」と彼は去って行った。

 渡辺先生と私は夏休みで閉鎖されている学食でコーヒーを飲みながら「分かってくれなかったですね」と肩を落として話し合った。

 『それならもう一度、出版を考えなさい』と言われた。

 さらに一年も遠回りしたドクター論文や膨大な資料も無に帰した。

 相手審査官の理解力を超えるとダメなのだ、ということを身に染みて感じた


【開発秘話】第10回 《アンサンブルを組織》20年6月  第33号

アンサンブルを組織 1986-92   33号

 事件以来、大学には一切期待が持てなくなった。これまで研究した演奏法を実現するべく、指揮法を勉強した。またアンサンブルを組織して活動を始める事にした。

 弦楽器と管楽器合計十数名の小規模なアンサンブルだったが、活動を開始。

 また各種のクラリネットを自ら揃えてクラリネットアンサンブルも組織して活動を始めた。

 研究が佳境に入り、出版と共に活動を休止した。

 また前後して、中学高校の指導の要請を受けたが、私の教え方そのものが一般の教育法と全く異なる事から、それを理解できる指導者の学校のみ、要請を受けてきた。

 しかしその異なる方法とは一般の指導とは真逆の方法で、それまで指導して来た先生の指導を結果的に全否定することになるので、余程器量の大きい教師でなければ受け入れる事はできない。

 吹奏楽コンクールが華々しい時だったが、しかし、受けてくれた学校では、半年、一年くらいで、県では優秀な学校の仲間入りをしたり、また県代表、関東代表になり、全国コンクールに出す事が出来たりと、これまで研究した私自身の成果を思う存分発揮させる事ができた。

 勿論これは先方の指導者の広い心があっての事であることは言うまでもない。

 本の出版が最終段階に入った頃、社会人の吹奏楽団を教えるようになったが、この聴覚システムの進行と共に楽譜を読む時間も取れなくなってきたため、これ以上は迷惑がかかると音楽関係から全て退いた。


【開発秘話】第9回 《出版社探し》 19年12月  第32号

大学のオーケストラ、吹奏楽をスコットランドのあるフェスティバルに参加する事になった約二週間のイギリス、ドイツ旅行だ。

 丁度、王貞治選手がホームランの世界記録を作った時で、イギリスでも大きく報じられていた。

 予定の行程を着々とこなし、帰国してみると、大学内の事情は一変していた。吹奏楽とオーケストラは演奏部に属していて、この予算だけが本部の自由にならなかった。

 演奏部の主要人物が全員居なくなっていた留守中、大学内の体制を一変させていたのだ。

 まだ若手の僕を手始めに切り崩しを図って行こうと、突破口として、とばっちりを食ってしまった。

 しかし私はそれほどヤワではない。

 すっかり計算が狂った本部側としては期待を裏切った事になり、その後15年もの長い間、両者にも属さない、裏街道を行く教師となってしまったのだ。

 いつか見てろ、化けの皮を剥がしてやるとの思いを一層燃やし続ける事になったのだ。

 

**指揮法を勉強35才ー39才**

 私を含めた『日本人はどうしてこうも西洋音楽を勉強するのに苦労を伴うのだ』という事から始まった研究。

 当初の研究は「クラリネットの演奏法」だったが、管楽器全体に言えるのではないかということで、広げて「管楽器の演奏法」になった。

 その後、器楽全体になった。そこで「音楽の現象」というタイトルに変更する事になった。

 この頃、私の持論と指揮法教典を書いた桐朋学園大学の斉藤秀夫先生の指揮法に書かれている事が似ているという事に気付き、同じ事だと研究する意味がなくなってしまう。

 指揮法教典に書かれていることの独学は難しく、実際に指揮法を斉藤門下に習った方が早いだろう。とは思っていたが、ピアノができる訳でもなし、指揮の素養は私にとって興味はあったが、研究にはあまり関係がないと思い悩んでしまってもいた。

 しかし35才頃、もうこの時期を逃すと年下に習うはめになってしまうと、斉藤門下の先生を探す事にした。

 運良く、長年修道院におられて指揮者として復帰した斉藤門下の最後の教え子である黒岩秀臣先生に巡り会い、教えを請う事ができた。

 教えを受けた当初は斉藤秀夫氏の指揮法教典がどのようなものなのかを確かめるのが一番の目的だったが、次第に指揮の奥深さにはまって行ってしまった。黒岩先生が10年間の長い修道院生活の直後に教えて頂いた事が私に幸運をもたらしてくれた、つまり、斉藤指揮法をそのまま伝授してくれたと思える事だ。

 指揮法のすさまじい運動で指の負担も大きく、あげくに肘まで動かなくなり、指揮法を習っている3年間はクラリネットの練習もろくにできない状態になってしまった。それでも指揮法を習得しようと、必死で勉強した。

 結果的には斉藤指揮法と僕が研究している事との間に近いものはあるが、直接的関係はないことが解った。

 が、指揮法の奥深さを知った事により、私のその後の研究において大きな示唆を与えてくれた。

 


【開発秘話】第8回 《出版社探し》 19年6月  第31号

19年6月号、31号掲載

 

****出版社探し*****

遡る事約十数年前、私は吹奏楽連盟の理事をしていたことがあった。その理事会の後に、席を移して地元の温泉で慰安会があった。食事の後は酒も入って皆どんちゃん騒ぎ。付いて行けない私は部屋へと戻った。

 

私の荷物の所には既に布団が敷かれていて、横には尊敬するフルート奏者で作曲家K先生が布団にうつ伏せになり本を読んでいた。

この方は当時私が勤めていた音大の教授でもあり、時々学内でもお会いしたことがあった。

話始め、私の研究を話した。でも全く新たな分野なので出版が叶うかどうか。という事を話した。

 

芸術現代社へ

教授は「それなら芸術現代社に行きなさい」「あそこは大衆に媚びを売らない、良い出版社だ」と。

以来、本が書けたらこの出版社へ。という夢を持っていた。

その十数年後、その事を念頭に作業を進めていたために当然、書けた80ページの原稿を持って恐る恐る芸術現代社を訪ねた。

苦虫を噛みつぶしたような社長の顔は恐ろしかった。

私は訪ねた経緯、今から10年前に⋯。と話した。

「よろしくお願い致します。」と原稿を置いて帰宅した。

数日後、電話で呼び出しがあった。

行ってみると、「君ね、こんな事言える訳ないだろう」

と、素っ気ない返事。

「O氏を訪ねてみたらいいだろう」「彼も変わった論の持ち主だ」、と。

スゴスゴ帰って、一応訪ねてみたが、変わりすぎている人物で、何の収穫もない。

 

***他の出版社へ***

当てもない出版社探しが始まった。

音楽関係書を出している大小の出版社を片端から歩いた。読んでくれる気配もない。

当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった音楽の友社では若い女性の担当者は「もっと勉強をしなさいよ」と、怪訝な顔をして言ってきた。

仲介業者も頼んで、様々な出版社を回った。

 

**宅急便のアルバイト**

出版社を回っては、回答待ちを繰り返していた。

仕事は一週間二日程度、仕事もなく本は纏まって、やることがなくなった。

そんなとき、本を纏めるために買ったマッキントッシュだが、もう一つの目的である例の「聴こえて来た音」を人工的に耳へ刺激する方法の模索であった。当時それをやろうとすると基本的な装置ですら数千万円の音響装置が必要だったので、当時は諦めていたが、音の編集ができるコンピュータソフトが出るのを待ち続けていたのだった。

暇を持てあましていたそんな時、マック用の音の音編集ソフトが出たという情報を得た。

調べてみると8万円近い。

貧乏のどん底をやっていた僕にはそのお金の出どこがない。

そこで手軽なアルバイトを思い付いた。持っていた車の持ち込みでヤマトの宅急便の配達だ。

ところが横浜市内なので、もし生徒の家の配達だったらどうしようとビクビクしながらやり始めた。

教師仲間ではつまはじき者だったが、学生達の間では有名人でもあった。うっかり町中を歩こうものなら、翌日は噂になり、一週間も経つと学校中の噂になっている。学生達の態度を見るとその事は良くわかった。

 

宅配に回ったっていたそんなある日、心配していた大事件が起こった。配達先の一軒から若い女性が出てきて「ああ先生こんにちは、どうしたんですか?」と言われてしまった。

バツの悪さこの上ない。

8万円を貯めると直ぐにアルバイトを終了させてソフトを買った。


【開発秘話】第7話  《言語と音楽の関係性》 18年12月号

【開発秘話】 第7話 1989.42才

 18年12月30号掲載

**例外事項の解決**

その後、幾つかあった例外の殆どは日本語との関係が濃厚であった事が判り、研究から約●17年、言語と音楽の関係がようやく落着したのです。

 

しかし、言語と分かった事でまた新たな大問題が発生したのです。

その問題とは英語もままならない私が、言語を研究しなくてはならない。

外国語の言語を研究するとなると当然喋る事、言語の習慣から歴史など言語学者並の知識が必要になる。

さらに今後、幾つの言語の習得できるのか…。何十年かかるのか⋯。

「音楽を解明するために始めた研究が言語になる」。そんな横道に入ることは出来ない。

考えてみても不可能な事は理解できた。

 

あまりにも大きな課題のために、その問題は取りあえず先送りすることにして、言語と音楽の関係性を纏める事に専念することにしたが…。

 

***言語と音楽***

音楽の問題点の90%以上が言語との繋がりが判った事で、文章化できるはずだと書き始めたものの、なかなか先に進めない。

一つの項目を書き始め、その項目を書き終えてみると、方向が全く違ったところに行ってしまい。次の項目に移れない。

また書く、その項を分かり易く説明をして行くと違ったところへ行ってしまう。

結局、書いて行くと、同じような内容を言い方を変えて散りばめることになる。

それでも数年かかってA4用紙300枚くらいの膨大な書き物になったが、これは本という体裁ではなく問題を書き殴っただけの粗末なものだった。

 

付属的な文言が多い、どうにもまとまりが付かない文章をどうにかしようと、こんな事をまた数年繰り返す事になった。

 

 ******講演依頼1989****

管楽器奏者の歯並びに興味を持っていた矯正歯科医師と懇意になり、協力しているうちに、音楽のこれらの現象を話すと、「とても面白い話です」「歯科医師の集まりで講演してくれないか」という要請を受けました。

当時はまだまとまりが付いていない状態だったが重要な項目100をKJ法風に纏め、演壇にたった。

長時間の話になってしまった。

毎回講演内容を紙媒体にして参加者に配るのだそうですが、その講演内容が出来上がってみると、あまりの長さに口述筆記者が途中で止めたり、手を抜いたりで、内容がアチコチ崩れていた。

数ヶ月経って、冷静に考えたら、この冊子、直せば生徒たちの参考書にできるのではないかと気付いた。

修正作業を始めて出来上がってみると40ページほどの参考書になった。

出来上がって文章を精査してみて驚いた。

あれほど文章化できなかったものがある程度文章になっていたのだ。

これをベースに内容をさらに加味して行けば本になるかも知れない予感がしてきた。

 

夢にまで見た文章化である。

既に40才を越えていた。

必死に文章化を進めてさらに約一年。A4用紙80ページの立派な原稿ができあがった。


【開発秘話】第6回 《例外項目とは⋯》  18年6月号

開発秘話】 第6話

KJ法を勉強1989.42才

 

**例外事項**

その例外とは「衝撃音を嫌う要素が日本人にはある」「だから日本には打楽器がない」「木琴類がない」という項目でした。

 

ところがよく考えてみると日本には和太鼓、鼓、鉦類、打楽器の宝庫でもあります。例外では済まされません。

もう一つは木や竹の豊富な日本文化なのに「木琴類がない」というものでした。

 

一週間ほど経ったお昼頃、ベッドに寝転び、天井を見上げてボーッとしている時でした。近くのお寺の鐘が「ゴーン!」。

 

「のどかだな〜」と思った瞬間、「これだ」と飛び起きたのです。

つまり日本には西洋の教会で打ち鳴らす金属と金属を打ち付ける鐘はない。

また洋楽器の小太鼓のようにわざわざ響き線を貼って雑音を出せるようにしたものもない。

お寺の釣り鐘の打撃は木で、打撃音は極めて弱く(子音部)響き(母音部)が極めて長いのです。

 

おまけにワ〜ンワ〜ンという小節が付いています。

長く響く鐘になると3分も響いていると言います。

釣り鐘は平安時代中国から輸入されて発展したものと言いますが、中国の鐘にはワ〜ンワ〜ンという小節がなく響き放しといいます。

これは鐘の最下部に10センチ前後の帯びがありますが、そこに花(菊)のマークが散りばめられています。それが奇数個だと唸りが発生し、偶数だと唸らないという事でした。

 

ある大晦日の「行く年来る年」で、「平安時代に中国から輸入された鐘です」。と、大釣り鐘を鳴らしている様子が放送されました。その大きさに、どうやって運んだの?と、当時の海運技術に驚愕させられた瞬間、鐘が鳴らされました。

その鐘の響きには確かに小節(うなり)がなく、響きっぱなしで、音もゴーンというこもった感じではなく、グギャーンという日本の鐘にはない感じの音でした。

 

・一方鍵盤楽器は?・

また鍵盤楽器に関すると、日本は竹と木の文化なのに何故か木琴類がありません。

竹はもともと日本にもあった(自生していた)と言いますし、篠笛や尺八などに使われています。また木は拍子木にも使われています。

 

「何故木琴がないか」

その理由を考えてみると日本語との関係が見えてきます。つまり日本語にはない関係です。

・衝撃音が強い。

・音程が決められていて音程の言い回しが利かない。

などの理由からではないかと思われます。

 

勿論、鐘類は宗教で使うものですから、発達とは無関係で例外として扱っても良いのですが、和太鼓類を考えても打撃音が少なく、中央が丸くなっていて響きを重視しているものが主流です。

 

これらが判って、打楽器と鍵盤楽器など、殆どの問題は日本語との強い結びつきが判ったのです。

 

詳しくは「音楽は何語?」—‘日本人はクラシック音楽をどう把握するか‘を参照して下さい。

「音楽は何語?」メトロポリタンプレス で再販


【開発秘話】第5回  《言語という天恵》   17年12月号

 

開発秘話】 第5話 KJ法を勉強1989.42才

 

****言語という天恵****

そうこうしている内に、「聴こえて来て」からすでに3年が経過した35歳の頃の出来事です。

肌寒い早春のお昼近くに近所に買い物に出ました。

家から一分ほど歩いくと東横線の菊名の駅があります。駅の階段にさしかかった時、何の前触れもなく突然右頭頂部から左脇腹を何か鋭いものが瞬間的に貫いたのです。

「アッ!」という声を出すゆとりもなく、激痛に息も絶え絶えに階段下にしゃがみ込んで、ひたすら痛みをこらえていました。

 

どれくらい経ったのかわかりませんが、痛みも和らぎ、何とか息もできるようになり、往来の激しい駅の階段にしゃがみ込んでいる訳にもいかず、立ち上がって、貫いたと思われる右頭頂部を触ってみました。

本当に貫いたなら頭は血だらけになっているはずが、手には全く血などありません。

脇腹を触ってみても変化なし。目で確認しても血らしきものはありません。

「何だよ!」と降ってきた空を見上げると晴れ間にポッカリと雲が浮いています。

雷に打たれたわけでもなさそう。

 

「クソ、何なんだよ!」と思いながら、まだ痛む頭と脇腹を押さえながら一歩踏み出したら「ゲンゴ」。また一歩歩くと「ゲンゴ」。

歩みを進める度に「ゲンゴ」。「ゲンゴ」と頭に響きます。

何でこんなに痛い時に「ゲンゴ」なんだよ。と恨めしく思った瞬間、「ゲンゴ⋯!⋯?」。「⋯!」。

 

待てよ、「言語か…!」。

 

それまで纏めてあった5,000枚のカードは5つくらいの大枠で纏まりますが、その5種類の因果関係が全く解らずにいました。

「言語」というキーワードをそれらに当てはめてみたのです。

するとその大項目が全て言語に当てはまるのです。

 

驚いて中項目の⋯。「⋯」「これも当てはまる」「これもだ、これもだ。

小項の⋯。「これもこれも、これも⋯」。

最後はまるでトランプを切る如くにパラパラパラとそれは凄まじい勢いで解決していくのです。

ゆっくり歩きましたが、たった百メートルの間の出来事です。

信号待ちをしているとき、「これは当てはまらない」という項目いくつかに当たりました。

 

殆どは言語のキーワードで結ばれますが、その中の一つ、「これは例外では済まされないだろう」という項目が出たのです。

信号が青に換わりました。その時ばかりは「買い物などしている時ではない」と、信号を背にして自宅に戻りました。

さてその例外が、どう説明できるのかを考え始めたのです。

 

その例外の項目とは⋯。

 

あの体を貫いたあの痛みは未だ何であったかわかりません。

 


【開発秘話】第4回   《KJ法を勉強》      17年6月

 

KJ法を勉強1989.42才

5,000枚の問題点を書いたカードを纏めるべく努力をしたが、あまりの多さと問題が多義に渡るために纏まらず悩みに悩んでいた。

ある時、問題を解決する‘KJ法’という発想法に出会った。

本当に纏まるのか大いに疑問を持ったが、その場で指導を受けて幾つかのカードを指示に従って纏めてみると答えが出る。

涙が出るほどに感激した。

「これだ」、と直ぐに一泊に講習会に参加した。

参加者全員が徹夜の作業になる。部屋に戻る時間もない。外が白み始める頃には目頭が熱くなること何回も。

 

朝のチェックアウトを迎えてホテルを出るが、爽やかな思いは今でも思い出す。

帰ってからは5,000枚を纏めるべく、チャレンジを始めた。

 

‘KJ法’は裏側に糊が付いた小さなラベルに問題点を書いて、分野別に纏めて、上位の問題を得ていくという方法だ。

ラベルは一度貼り付けると二度目は使えない。

5,000枚のラベルを一つ一つ書いて行くことも膨大さ作業になる。

また似た内容や、重複も纏めて行かなければならないという作業も待っている。

‘KJ法’に入る前に、まずこの整理をどうするかを考えた。

 

当時、始めて日本語化されたコンピュータ、マッキントッシュなら、私がやりたい作業は全部できる、との情報を得た。

コンピュータは当時まだ一般的になるずっと前の時代だ。秋葉原に行っても情報は殆どなかった。当時はワープロが事業所にようやく入り始めた時代だった。

これを買うべくアルバイトを始める事から出発。

 

この目的には二つ。一つは述べたようにデータの重複を見つけるためと、ある程度項目別に整理すること。

二つ目はラベル化するための印刷。当時からマックは一ミリ以下の精度で印刷指定ができる唯一のコンピュータだった。

 

マックを買い込み、データの打ち込みと整理。格闘すること約一年。

ラベルに印刷のための書式ができた。

ようやく印刷ができると思ったが、‘KJ法’で勉強したのは50枚程度だったので、その100倍をいきなりやるわけにも行かず、少ない数での予行練習を始めた。

 

準備万端整った所で夏休みの大学の図書館の大会議室を三日間借り切った。

ある程度天井が高い会議室といえども五千枚のラベルを貼っていくとなるとラベルをキッチリ並べるだけで6畳以上のラベルを貼る紙が必要になる。模造紙の全紙を繋ぎ合わせて丁度6畳くらいの広さのものを作った。

 

しかし、この大きさになると全部のラベルを見渡して関係性を精査する事は不可能だ。

これで2,500枚が限度だろうと、そこはコンピュータなので下準備さえ整っていれば選び出す事は難しくない。

しかし印刷だけで二日がかり。

カード一枚は名刺の半分くらいで裏側に糊がついているものだ。

当日わくわくしながら図書館に行った。

この‘KJ法’だけで、数年間かかった。ようやく苦労が実る時が来たと思って意気揚々と図書館に出掛けた。

 

全紙6枚を繋ぎ合わせた大きな紙を3枚天井から吊す。

当然、小さな紙なので細かい文字を見渡す事ができない。そのために双眼鏡も準備。

KJ法は全体を見渡して、関係の深い項目をまとめながらラベルの並べ替えを行っていくわけで、この作業が大切なのだ。

 

それを大きな一つの枠を島と呼んでいる。幾つもの島を付けて、島と島を次第に関連づけていくのだが、試しに数百枚仮付けをしてドキドキしながら「さて⋯!」、と双眼鏡から覗いた。

覗いて愕然とした。

双眼鏡を覗いて見ると、文字を読もうと近づくとほんの一部しか見えない。全体を見渡そうとすると文字は全く見えない。どうにもならない。

裸眼だと上と横も見えない。

とても三日や四日で出来る作業ではなく、一ヶ月以上格闘しなければならない。また一人でできる作業ではない事が直ぐさま判明。

眺め始めて一時間、溜め息とともにあえなく挫折⋯。虚しさだけが残った⋯。

 

**山小屋で挑戦**

その秋、今度は大きな項目800枚を知り合いの山小屋に持ち込んでやってみるが、これもできない。

 

家にもどり、自分の部屋へ4畳ほどのベニヤ板で机を作り、作業を始めた所、窓からの風でラベルが飛んでしまう。

子供が「パパー」と部屋に入って来ると数日がかりで折角並べたラベルを崩されてしまう。

以来、部屋はガムテープでしっかり止めて入れないようにする。

昼夜、かかり切りに一週間。何とか、5つのグループに纏める事ができた。

 

その後KJ法学会があり、特別参加でその800枚を発表した所、「纏め切れてはいないが、ここまでやった人はKJ法始まって以来だ」、「(創始者の)川北先生が見たら喜ぶだろうな!」と⋯。それは大きな評価だった。後で聞いた話だが、KJ法は多くて200枚。平均は60枚前後なのだそうだ。

「何だよ!」「最初から言ってよ!」「こっちは必死の思いで整理した5,000枚なんだぜ!」独り言⋯。


【開発秘話】第3回   「再出発」     16.6.1夏号

 

「何故聴こえて来たのか」

 

安堵したつかの間、では「何故僕にだけ聴こえてきたのか」という新たな大問題がまた出てきたのです。

何十年音楽家をやっていても、天才と名の付く人たちも聴こえてこない。その原因は何故。という事です。

 

***僕は天才?***

「ハハハ!僕は天才だから」と片付けるのは簡単です。しかし天才であったら子供の頃から聴こえているはずで、ある日突然!など、起こるはずがありません。これにはキッと原因があるはずです。

その答えを求めて、また考える日々が続きました。

 

この問題は多分としか言いようがありませんが、私自身が一般の音楽家はまず経験しないだろうという、紆余曲折した音楽経験に加え。大きな問題意識を抱えていたことなどから、水面下から水面上へ水生植物が顔を出した如く、「ある日突然聴こえてきた」、その事に気づけたのがその日だったのではないかという風に思えたのです。

 

「聴覚システムの夜明け前」

「もし、僕が聴こえて来た音を訓練させる手立てがあったらな〜」とぼんやり考え始めたのはその頃からでした。

 

その後、大きな問題が解決ついた所で、再び五千枚のラベルを纏める作業に入っていきました。

しかし幾つかの大きな固まりには分類できても、一つのキーワードで纏まりません。纏まらなければ当然理論にはなりません。単なる沢山の思いつきに過ぎないのです。

 

ここまで解っていながら説明困難な音楽の現象。イライラが募ります。

 

その答えを求めて、また考える日々が続きました。

 

【第3話・開発秘話】

聴き慣れた雑音だらけのレコードから何故新しい新鮮な音が聴こえてきたのか!

自問自答の日々が半年もの間続きました。

人間は半年くらい経つとショックは和らぐもので、いつまでショックを引きずっていても解決にはならない。「それなら一層反対に考えたらどうだ。」と思えてきました。

それは「僕が聴こえてきた音は世界の誰もが聴こえていなかった音なのだ」と。

あまりにも突飛で都合良い考え方で、自分でも可笑しく思えるほどでした。

しかし、それ以外答えを導き出す方法がなかったのです。

その条件として例外は作ってはダメ、ということです。

それはベートーヴェンもバッハもモーツァルトも聴こえてなかった。と考えなければなりません。当然世界で活躍する指揮者たちも入り、外国で活躍する音楽家も同じ事です。

それは例外を考えると複雑になりすぎるからという理由と、またその理由づけに、また一つ一つに理論が必要になります。

 

兎に角そのような考え方で今一度考え直そうと出発する事になりました。

 

「再出発」

音という現象は微細な音の変化です。そのため人にこれ聴こえる?と確かめる訳にはいきません。そのため当然最初から人に言うことができません。自分で答えを見つける以外になかったのです。

 

「自分にだけ聴こえてきた?」

十数年の間、音楽に起こる疑問点、問題点をカードにしてありました。その数は既に五千枚を数えます。

それらを常に書き足したり、重複を常に整理していましたが、それから一年くらい経ったでしょうか。

「もし音楽家に聴こえているとしたらこんな矛盾があるわけない」という、問題点が見つかってきました。

一つ出てくると芋づる式に出てくるもので、その半年後、つまり私に聴こえた以来二年後には「どうもそうらしい」ということが山のように見つかってきたのです。さらにその半年後、それは確信に変わったのです。32才の時でした。

 

やっぱり私が聴こえてきた音は自分にしか聴こえてなかったのだ。

と言うことはこれまでの研究全ては正しかったという確証でもありました。

 

ということはそれまでの研究はそのまま持ち越しになって、無駄にはならなかったのです。

安堵した一瞬でした。

 


【開発秘話】第2回 《聴こえてきたショック》 15.12.1号

しかし何としても許せなかったのは学内の教師たちの中には低次元の教師が多くいたことです。

同等だと思える人は僕より上だったと思っても許せますが、どうにも許せない、その教師達の存在でした。

それをどう解決させられるか。しかし答えがない以上、そんな教師達の方が私より優れていた、と思わなければなりません。

そのショックが大きかったのです。

・・・

二十歳の頃は当時名手揃いのアメリカ空軍の軍楽隊の中に加わり演奏したり⋯。一時はジャズバンドで演奏し、アメリカ人の根本的な演奏感覚の違いにショックを受け、その頃からレコードを聴いては自分の演奏をテープレコーダに録って比較する。回転数を変えたり早めたりして分析。またレコードがすり減るからと、テープレコーダに録音するなど、テープレコーダが私の先生になっていました。

テープレコーダを壊して修理、壊れては修理。当時5台くらいのテープレコーダを使い壊したのではないかと思います。

教師になってからは多重録音ができるテープレコーダ。38回転のテープレコーダまで多用していました。20年近くテープレコーダ漬けの生活だったのです。

 

しかし、そのおかげもあって、専門のクラリネットだけではなくあらゆる管楽器の音を聴くだけで、口の中、舌の位置がレントゲンのように解り、演奏法の間違いを瞬時に見分け、多くの生徒たちのアドバイスもしてきました。

当然、細かな音の判断では自負するものがありました。

しかしそれまでどういう訳か聴こえて来なかったのです。

【開発秘話】15.12.1号

第2回

「聴こえてきたショック」

 

何万回と聴き馴染んだそのレコードから聴こえてきたその音とは、いつもの演奏ではない全く異次元の演奏だったのです。

その原因を、まずステレオ装置から調べたのです。

 

「音の正体は?」

でも頭では解っていたのです。装置の違いではないと。

装置であってくれ、と願わずにはいられなかったのです。

そうです。どういう訳か、その時点で私の耳が違ってきていた、その瞬間だったのです。

その違った音を口で説明するなら、傷だらけのはずのレコードからとても繊細微妙な音の変化が聴こえてきたのです。それはラジカセから超高級なステレオに変わったかのような違いだったのです。

しかし再生装置は何一つ触っていなかったのに。

 

もうパニック、涙が流れる寸前。しかし泣いてなどいられません。

「どうして⋯どうしてだ」。という繰り返し⋯。

本当に違った音が聴こえてきたのなら他のレコードもそうなっていなければならない、と思って、聴き馴染んだレコードから聞き込んでいったのです。

しかし結果は同じ。「なんで?こんな演奏だった?」「こんなに素晴らしい演奏だった!?」

朝の6時まで調べまくっていました。

とうとう一睡もできずに大学へと出勤しました。

以来、何でという繰り返し。大学では生徒にろくなレッスンもできず、途方に暮れた生活が続くことになりました。

「自分だけがこの音が聴こえてなかった」

大学内では肩身の狭い思いをしながら研究をしてきた10年間の孤軍奮闘。それが全く無駄になってしまったからです。

 

70才80才の大先輩音楽家は大勢います。それが30才前の私の経験からすれば数倍の音楽生活と豊富な経験を持っているわけで、その人たちが聴こえていないなどとは到底考え難いからです。

つまり私の未熟さによって我田引水して研究を進めてしまったことに対するショックでした。

 


第1回 【夜明け前】*聴こえてきた不思議な音 15.6.30夏号

【トレーニングシステム開発秘話】  第一回15.6.30夏号

 

皆さんご存じのように、このシステムの始まりは、音楽関係者の耳を開発するという目的で始まりました。

今回の号から如何にトレーニングシステムに発展してきたか、その変遷を連載で書いて行こうと思います。

 

 第一回【 夜 明 け 前 】  *聴こえてきた不思議な音*

 

音楽家、教育者であった32歳の若かりしある日、突然聴き慣れたレコードからこれまでと全く違った音が聴こえて来た事に端を発します。

日本の音楽教育は何か違っていると必死になって研究をしていた時でした。

その日は久しぶりに3時間くらいの練習がとれて、夜12時を回った頃、すり減る程聞き込んだレコードを取り出して聴き始めたました。

私の専門であるクラリネットのレコードです。

イギリス人の演奏家で第二次大戦前後に活躍し、ジャズプレーヤーのベニーグッドマンを教えたということでも知られた人物、レジナルド・ケルという演奏者です。

イギリスのクラリネット奏者はビブラートをかける事で好みが分かれますが、このケルはイギリスのクラリネット奏者の中でも独特のスタイルを持つ演奏です。

勿論、私も見向きもしませんでした。

ところが当時はまだそれほど沢山のレコードがあったわけでもなく、当時、私が勉強していた曲の参考できるレコードは、このプレーヤーのものしかなかったのです。

「気持ち悪いけど参考にだけ」、と聴き始めたのです。

当時の私の最大の先生はテープレコーダで、多用していました。

この演奏者のレコードを聴いては自分の練習を録音して分析するという毎日を送っていました。

そんなある日、このプレーヤーの演奏のスピード感に、自分の演奏がどうしてもついていけないのです。

メトロノームをかけて自分の演奏を早く、また早く、と繰り返して自らの演奏を録音してテープレコーダを部屋に持って帰り、聴きます。

結局、彼の演奏のスピード感になったのは演奏不能ギリギリのテンポでした。

一時は「スゲーな彼は、このテンポで演奏できるんだ」と思いましたが、「まさかそんなに早い訳ないだろう」と頭をよぎりました。

悩んだ末、翌日、そのテンポを確かめるために練習場でレコードのテンポをメトロノームで計ったのです。

三つの小品という3つの曲から成る曲ですが、驚いた事に何れの楽章も楽譜指定の早さの三分の二という極めて遅いテンポだったのです。

私の演奏はテクニック不能になる1.5倍以上の早さでした。

つまりケルの2倍のテンポで演奏しなければ、彼の演奏の感覚にはなれなかったものです。

これに驚いて「嫌いだとは片付けられない」と、このプレーヤーの演奏の秘密の解明することになったのです。

演奏の特徴を掴んで真似る事が得意であった私も、このプレーヤだけはチンドン屋のようになってしまうのです。

しかし、少しの真似ができるようになるに従って、この演奏者の素晴らしさが理解できてのめり込んでいきました。微細な所も聞き逃すまいとレコードの演奏の徹底的な分析とさらなる真似を始めたのです。当然レコードは傷だらけ、雑音だらけになってしまいました。数年後、ケルの研究も一段落しましたが、自分に迷いが出ると時々聴きたくなるのです。

その日、久しぶりに彼の演奏が聴きたくなって、その傷だらけのレコードをかけたのです。

いつもの演奏が聴こえて「また元気をもらえる」、と当然思っています。

ところがこの日は違っていました。

いつもの演奏ではなかったのです。奇異に思って、楽器の片付けも早々に終わらせ、「どうしたんだろう?」と真剣に聴き始めました。

もうその時は直感的に何かが起こっていると感じていました。

「どうしよう…!」。

泣くに泣けない事態が起こっていたのです。

「思い過ごしであればいい」と、オーディオシステムを細部まで調べました。

しかし配線を替えたり、オーディオシステムをいじったりした所は無かったのです。

頭の中はパニック状態。